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2016/01/21 6:55: 歴史への招待 12) 五代友厚

朝ドラ「朝が来た」に出てくる人物ですが、薩摩藩出身で早くからの開国派。後に官界を退き大阪の経済界の復興に寄与した人物として知られています。
五代友厚を演じるのはディーン・フジオカさんで、ご覧の方はよくわかるとおり男前ですが、当の五代友厚本人も写真の通りなかなかの美男子です。

前置はさておき物語は、薩英戦争(生麦事件に端を発した薩摩と英国の戦争)の会戦目前、英国艦隊が鹿児島湾に姿を現したときから始まります。
五代は、薩摩の艦隊(わずか3隻の汽船)の艦長として、果敢に英国に戦いを挑むどころか白旗を掲げ、英国にさっさと降伏し捕虜となってしまいます。

物語で五代は何も語りませんが、後の行動からして、無益な戦争で有能な人材を失うより、戦後のことを考えて英国に渡りをつけ、有能な若者達の留学を考えていた。
この行動は、先見の明があったとは言いながらも、戦いの最中に一戦も交えず敵に降伏したことは、当時の薩摩藩士からは憤りとともに裏切りととらえられ、後も長く信用できない要注意人物の烙印を受けることとなります。

留学生一団を率いての英国留学を経て後、戊辰戦争時の討幕用最新兵器群をまるで手品のような方法で手に入れる。
幕府を後押ししているフランスに対抗して幕府を倒すには時間がない。時間がたてば規模の優位から幕府に理があるのは目に見えている。
戦争は、武器の優劣で決まる。兵器の優劣で優位に立っている今しか討幕の期はないとの思いから、110万ドルの武器購入の契約をする。当時の薩摩藩の歳入は年約30万ドル。実に歳入4年分の契約を五代の一存でやってのけ、しかも支払いは、今だ産声すら挙げていない新政府に回すと言う。
おまけに前金の担保としたのは、大和国(奈良県)の天和銅山だ。もちろん薩摩領ではない。
五代マジックといってもいい方法で手に入れた武器により、鳥羽伏見の戦いは官軍の勝利となるのです。

このような先を見通せる頭脳を持ち、商才にもたけ度胸もある五代は、時の有力者大久保利通の引きにより、官界でも頭角をあらわしますが、明治2年には早くも官界を辞去し、大阪に進出します。

江戸時代大阪は、天下の台所として全国の物産が集中する一大経済地域でしたが、幕府崩壊後の混乱から抜け出せず経済界は疲弊し喘いでいました。
戊辰戦争が終わって幕府は崩壊したが、今後新政府内の対立や改革への不平がたまる士族の不穏な動きが強まる中、五代や大久保は次の火種は九州と読み、いざという時の兵站基地となる大阪は、幕府崩壊後の混乱からの立て直しが必要と感じていた。

政商と言われ、黒いうわさに取り巻かれながらも、大阪の経済界をまとめ上げ、大阪復興・発展に寄与し、のち大阪商法会議所の設立に貢献したことなど、特筆すべき人物です。


「五代友厚」高橋直樹著 潮文庫


本部 橋本

2016/01/11 8:48: 歴史への招待 11) 阿片戦争

阿片戦争。隣国中国(清)で、阿片厳禁に端を発して、1840年に起こった英国との戦争の話です。
当時日本は、江戸末期。ペリー来航で眠りから覚める十数年前の出来事ですが、黒船とともに外国の脅威を強烈に意識づけた出来事だったと思います。

阿片戦争、アヘンの文字が示すように、英国による阿片の密輸入と、それに伴う民心の荒廃、正貨(銀)の大量流出による物価高沸に疲弊する民衆。
業を煮やした時の道光帝の厳禁論採用により登用されたのが、有名な林則徐です。

物語は、開国に向けた意思を持ちながら対外強固派を支援する豪商 連維材を中心に、アヘン厳禁論を掲げ欽差大臣として阿片処分、対英強固姿勢を貫いた林則徐、暗黒街の黒幕で後に民衆を組織し、対英から対清へと向かう王挙志、厳禁論に対し弛緩論、対英和平を唱えながら実は、保身に汲々とした道光帝側近1、穆彰阿(ムチャンア)、連維材と対立しながらもどこか共感し合う「公行:コンホン(対外貿易を独占した商業組織)」の伍紹栄などを交えて、清末期、衰退と腐敗、激動の時代を、それぞれの立場で生き抜く人々を描いていきます。

この物語で欠かせないのが、連維材の庇護を受けながら何不自由ない生活に飽き足らず彷徨う西玲、穆彰阿の愛妾から逃れ出て自分の生き場所を見つける黙琴、黙琴の妹で生きがいを求めて止まず、ついには穆彰阿の手先となり命を絶ってしまう清琴など、物語を彩る女性陣の存在です。

物語の中の数々の戦闘シーンでは、腐敗しきった清の官僚・軍人の中でも、一握りの人々が強大な英軍に立ち向かい散っていく姿には、感動を覚えます。
また、戦争には付き物の、略奪、凌辱などにより苦しめられる一般民衆の姿は、いつの時代でも戦争には悲惨な側面が付きまとうことを、思い知らされるとともに、平和のありがたさを感じさせられます。

英国人自身が、大義なき戦争と呼び、最も恥ずべき戦争と言った「阿片戦争」。
大義があろうがなかろうが戦争に負けた清は、その後列国の植民地同然の状況に追い込まれてしまう。日本も同様の脅威があったにもかかわらず明治維新を迎えることが出来たのは、何故なのか?

この戦争は、東アジアおよび日本のその後100年を、導き出した歴史の転換点だったのではないでしょうか。
歴史の大きな流れに思いを馳せながら読了しました。



集英社文庫「阿片戦争」陳 瞬臣著


本部 橋本

2016/01/01 4:55: 歴史への招待 10) 越前宰相秀康

親藩、越前福井藩の開祖、松平(結城)秀康、徳川家康の二男の生い立ちから若くして亡くなるまでの数奇な物語です。

家康の妻妾「お万」を母として生を受ける秀康ですが、秀康は双子でした。
当時は迷信から双子は「畜生腹」と言いい、特に武家には忌み嫌われ生まれてすぐになきものにされるのが常でした。

お万はわが子を守るため気丈にも、家康の元を飛び出し、家康の家臣本多作左衛門重次に庇護を求め、秀康と弟を生み落すことができます。
しかし、重次が生まれたのは一人だったと家康に報告したにもかかわらず、家康はお万の行動を裏切りととり、秀康は親子の対面もかなわない境遇になってしまう。

このことが長く家康と秀康の間の溝となり、冷淡とも言える親子関係の元となります。
秀康は名前も付けてもらえず、それを気遣った兄信康が、於義丸と名付けてくれるが、親子の対面は、これも信康の機転により3歳にして初めて叶うまで、待たなければなりませんでした。
その後、お万とともに浜松城に引き取られ、同じ城に住むことになるが、家康からかわいがられるどころか、会うこともなく幼少期を過ごします。

秀康が転機を迎えるのは、秀吉からの養子縁組依頼により、養子に出されてからです。
意外にも秀吉は、秀康を大層にかわいがり優遇します。そこには家康にたいする配慮があるのですが何も知らない秀康は、秀吉の器の大きさ、偉大さに感動します。
若輩ながら豊臣家の一員として、官位も上がり大名なみの待遇となり、周りからは嫉視され、自分は有頂天になります。

しかし、家康が臣下の礼をとり、北条征伐も完了し、全国制覇が目前となるとともに、あきらめていた世継ぎが秀吉に誕生した時、突然秀康は関東の名家結城家に無理やり養子に出されてしまう。
秀吉からすれば、世継ぎ鶴松が生まれ、家康を臣従させたことにより用無しとなった秀康の厄介払いだったのですが、後の秀吉の乱行から考えるに秀康は運が良かったのかもしれません。

その後、家康の配下大名のような立場に立たされた秀康。
天下分け目の関ヶ原には、参陣を許されず、対上杉の抑えの総大将として関東に留まる。
これも、留守を任せ抑えの軍の総大将となる器量を備えているのは秀康しかいなかったとも言えるのですが、家康の秀康への不信感の現れとも言える命令でした。

関ヶ原に大勝し、征夷大将軍に登る家康は、秀康に対する恐れと期待から越前一国、破格の待遇を与えますが、旧姓松平を名乗ることを要求し、弟秀忠の臣下に下ることを求めます。
制外の家と言う破格の待遇を与えながらも、臣下として幕藩体制に組み込もうとする家康の思惑は、豊臣家が一大名になりながらも現存する状況で、豊臣秀頼と豊臣恩顧の大名と言われる人々の動きは注視せざるをえない存在であり、秀康に期待しながらも不信感(ひいては家康の負い目)を払拭できない状況から生まれたものです。

まかり間違えば、自分が将軍になっていたかもわからない。
弟秀忠に臣下の礼を取りながら、そこに座っているのは自分かもしれないとの燃えるような葛藤を抑えこみ、黙々と努めに励む秀康は、父家康への複雑な思いを断ち切り領国経営に乗り出そうとした矢先、病に倒れ34歳の若さでこの世を去ります。

数奇な運命に翻弄された秀康。
秀康について書かれた小説は少ないので、興味深く読ませていただきました。


文春文庫「越前宰相秀康」梓澤 要著

類似書で秀康について書かれた
中公文庫「家康の子」植松 三十里著も、面白いです。


本部 橋本