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歴史への招待 83) 江戸開城

2018/01/11 6:53:

1868年〜9年(慶応4年から明治2年)の戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、彰義隊の上野戦争、奥羽越列藩同盟の成立と北越・東北戦争、函館五稜郭の戦いまでの、一連の幕府軍・旧幕府軍と官軍の戦いを言う。
慶応4年は明治元年に改元しているので、足かけ2年の戦いであった。

その中で、江戸城の無血開城は、ただ単に官軍が旧幕府軍を圧倒屈服させ、開城させたものではないと言う点で異色であり、また西郷と勝の二人の会見だけで成ったと言うことも奇跡としか言いようがない。

何故なら薩摩・長州らの官軍が、強大な軍事力と最新兵器で、旧幕府軍を圧倒したかに思える戊辰戦争だが、実は一部装備・訓練も行き届いた薩長軍が存在したことは事実としても、数・質に勝る軍事力を備えていたのは、旧幕府軍・徳川家側だったのだ。
鳥羽・伏見の戦いも、初戦で敗退したが、大坂には万を超える備えがあったにもかかわらず、慶喜が朝敵となることを恐れて江戸へ逃げ帰り、負けが確定した。

鳥羽・伏見の敗戦で、大政奉還と、その後の王政復古にも懐疑的で日和見だった西国諸藩は、雪崩をうって官軍側についた。
親藩・譜代・外様の区別なく、箱根以西で徳川方の藩はないと言えるくらいの大変貌だった。
しかし、関東・東北の諸藩は、薩長中心の官軍に従うことを良しとせず、徳川方は、いまだ十分官軍に対抗できる勢力を保っていた。
しかも、海軍力は圧倒的に徳川家側が優勢であった。

朝敵慶喜を討つとの名目で発せられた東征軍と旧幕府軍が全面戦争に至った場合、日本は未曽有の内乱状態となる。
薩長を支援する英国、徳川家を支援する仏国。どちらが勝つにしても国内は疲弊し、欧米列強の介入を招くことになっただろう。

内乱を防ぐことになった「江戸開城」は、戊辰戦争と明治維新の行く末を決定付ける出来事だった。
絶対恭順と徳川家の覇権回復に揺れ動きながらも最終的に恭順を貫いた慶喜も評価されるべきだが、何と言っても、多くの幕臣から裏切り者扱いされながら、当初より内戦回避、絶対恭順を唱え続けた勝海舟と、血の犠牲を求めて止まない討幕派の人々を抑え切り旧幕府軍・徳川家との全面戦争を避けた西郷隆盛は、やはり傑人と言うしかない。


「江戸開城」海音寺潮五郎著 新潮文庫 978410115709


橋本

歴史への招待 82) 天翔ける

2018/01/01 9:02:

「なき数によしやいるとも天翔(あまかけ)り御世を守らむ皇国(すめぐに)のため」
春嶽、享年六十三。辞世の歌である。

春嶽は徳川一門、御三卿田安家に生まれた。
本名は慶永、幼名は錦之丞である。十一代将軍家斉は伯父にあたり、十二代将軍家慶は従兄である。
御三卿の家に生まれた者の務めは、将軍となるかもしれない日に備え、日々勉学に勤しみ、己を鍛えることだった。
毎日、早朝に起きると自分で髪を整え、身支度をし、「大学」「論語」の素読をする。午後からは「手習稽古」などに励む、読書好きな子供だった。

天保九年(1838)春、慶永は将軍家慶の命により、十六代越前福井藩主となった。
十一歳の少年藩主である。
藩主慶永の側近、御用掛となったのは国学者である中根靫負(雪江)だった。
教育係りとして藩主としての責務を厳しく説く靫負の言を入れ、慶永は藩政改革に乗り出していく。
旧守派の家老らを退け、人事の刷新を図り、橋本左内ら人材登用で、改革に成果を上げた慶永は、積極的開国論に藩論を転じ、将軍継嗣問題にも深く係わるようになる。
左内らの尽力にもかかわらず、井伊直弼ら南紀派との政争に敗れた春嶽は、隠居を命じられ、逼塞を余儀なくされるかに思われた。が、
「百折不撓(ふとう)」(何度挫折してもくじけない)

思い直した春嶽は、熊本より横井小楠を招き、更なる改革に邁進する。小楠の指導により藩財政を立て直した春嶽は、政治総裁職として、将軍後見職の一橋慶喜や春嶽とともに四賢侯と言われた土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らとともに、難しい国政の舵取りに向うことになる。

ペリー来航以来の未曽有の国難に際しても、「私」私利私欲、から逃れられない幕府、諸藩、公家らをしり目に、一人「公」国と民、のための政を貫こうと孤軍奮闘した春嶽。
政治を行うには清廉過ぎた春嶽。春嶽の目指す挙国一致は結局実現せず、薩長中心の討幕勢力により維新が実現する。しかし政界を退いた後も春嶽は国の行く末を案じ続けたようです。
辞世に国を思う気持ちが込められています。


「天翔ける」葉室麟著
KADOKAWA 978404105720

橋本

歴史への招待 81) 鳳雛の夢

2017/12/21 5:57:

伊達正宗、幼名は梵天丸。
伊達家当主輝宗と出羽国主最上義守の娘義姫との間に出来た嫡男である。
五歳の時に患った疱瘡により、顔にあばたが残った。だけでなく疱瘡の毒が右目に入り、右目は失明、しかも腫れによって眼窩から大きくはみ出している。
端正な顔立ちだった梵天丸は、醜く変貌し周囲の人々から疎まれ、最愛の母からも忌避されるようになってしまった。

梵天丸は、醜い顔を隠すように、うつむいたままで目立たず、声も出さないような子となった。
周囲の者には、大人しい、覇気がないと評判は最悪だったが、一人父輝宗だけは、梵天丸を愛し続けてくれた。
病が癒えると、父は禅僧虎哉宗乙(こさいそういつ)を、梵天丸の師として付けてくれた。
宗乙は、梵天丸に憤怒の表情で睨みつける不動明王の仏像を見せ、「不動明王は悪しきを追い払う降魔の仏。内にあるは、衆生を慈しみ守る優しい心」「そなたも伊達の惣領として守る側なのだ」と諭した。
「伊達を守る為に近隣を取る。征服した地の民も伊達の民、その民を守る為に、さらに周囲を併呑する。天下を統一すれば戦はなくなる」天下制覇のために宗乙は厳しく梵天丸を鍛えた。

初陣で城一つ。
元服し藤次郎正宗となった梵天丸は、十六で初陣を迎えた。
宿敵、相馬氏と大内・畠山の連合軍に、父輝宗は伊達の全軍を投じて迎え撃った。
正宗は、別働隊三千を率い、相馬方の金山城を攻めると見せて、別の金津城を攻めた。あわてて救援に赴いた相馬方の陣形の乱れを父の主力軍とともに撃ち、金津城を落とした。
「初陣で城一つ。古来稀なり」と父に絶賛された。

父をわが手で。
若くして当主となった正宗は、近隣を苛烈に攻め立てる。若年の当主と侮られないようにと抵抗する者を撫で斬りする正宗を危惧する輝宗は、畠山義継の降伏を仲介しようとするが、不覚にも質にとられ連れ去られようとする。
国境まで追跡した正宗は、遂に決断し父輝宗もろとも畠山勢を銃撃し、父を死なせてしまう。

惣無事令と宿敵葦名。
その後も、正宗は近隣の畠山、二階堂、葦名などとの攻防は一進一退、奥州制覇は夢のまた夢だったが、天下は大きく動いていた。
秀吉は、毛利、上杉、徳川らを傘下に納め、惣無事令に背いたとして九州を征伐、島津を下した。
焦る正宗は、葦名家重臣猪苗代盛国を調略し、遂に宿敵葦名を滅ぼした。
しかし、秀吉の惣無事令に背くことは明確で、しかも葦名は秀吉に臣従していた。

雌伏の日々
秀吉が北条征伐に20万の大軍を動員するに及び、遂に正宗は決断し秀吉に膝を屈する。
奥州制覇の夢を捨てたわけではないが、如何せん、天下の定まるのが早すぎた。
しかし、葦名の旧領会津は召し上げられるが、正宗の首はつながった。

その後も、奥州征伐で改易された諸家の旧臣らの一揆を支援したり、ポスト秀吉の関白秀次に接近し、二度死にかけているが、したたかな正宗は窮地を切り抜け、関ヶ原でも奥州制覇に向けた独自の動きをみせる。
風雲児正宗は、生まれてくるのが遅すぎた。しかし戦国の世も終わりを告げた徳川の時代、外様の改易が続く中にも、したたかに伊達家を守り通し、奥州制覇の夢を捨てることはなかった。


「鳳雛の夢」上巻 上田秀人著 光文社時代小説文庫 978433477550
「鳳雛の夢」中巻 978433477551
「鳳雛の夢」下巻 978433477552



橋本

歴史への招待 80) 呉漢

2017/12/11 6:08:

呉漢は、漢(前漢)末期南陽郡苑県の人で、城外の彭(ほう)氏の農場で働く雇人に過ぎなかった。
「赤貧洗うがごとし」。父はすでに亡く、母と兄、弟の四人暮らしだが、食費の負担を減らすために農場の長屋に住み込みで働いていた。

家を支えるために働き続けるしかない呉漢には、何の希望もない。しかし己の境遇を嘆くこともなく、他に怨嗟の目を向けることもなく、ただ黙々と耨(くわ)を振い土だけを見ていた。

そんな呉漢を、彭氏の長子彭寵を訪れた、彭寵の学友潘臨(はんりん)が見ていた。
潘臨は、呉漢に「たまには天を仰ぐべき。それでなくば地をうがつほどみつめるべきである。人が念う力は、小石を黄金に変える」と言った。

潘臨の儒者風の言動が気に入らず、腹を立て、またわが身の学のなさを痛感し哀しみに覆われた呉漢だったが、潘臨が彭寵に呉漢の働きぶりと人柄を好感をもって伝えたため、彭寵に認められ農場の若者を監督する立場になった。

立場が人を育てる。それまで人とのかかわりを拒むかのように寡黙で、ただ黙々と耨を振うだけの呉漢だったが、若者達には厳しく接しつつも、またよく彼らの話の聞き役となった。
呉漢には、人を見抜く目と人を引付ける力がある。
特別のことをしているようには見えないが、農場内の雰囲気が変わり、若者たちだけでなく、皆がきびきび働くようになり、農場は豊作となった。

この後、漢(前漢)は王莽の簒奪により新に変わった。
ある日、郷里の父老に供なわれ県庁に赴くと、意外にも亭長(官吏の休息所所長兼警察署長)に任命された。
これも、新野県の県宰(県令)となった潘臨の推挙によるものだった。

亭長は、訴訟なども取り扱うので司法の知識がいる。農場で知り合った不思議な知識人、祇登(きとう)先生が助けてくれた。その他従者となって呉漢を支えたのも農場で共に働いていた角斗と魏祥だったが、この三人は、この後も終生呉漢と共にあり、掛け替えのない師であり友となる。

亭長としての生活に馴染んだかと思う間もなく、故あって亭長を辞めざるをえなくなるが、紆余曲折を経て、北の彼方幽州安楽県の県令になる。
田舎の警察署長が、いきなり市長になったようなものだが、これも農場時代の友人、韓鴻の推挙によったのだ。

王莽の新は、急激な改革の嵐をもたらし、たちまち民心を失い各地で反乱が興る。
その中に、南陽の劉氏兄弟があった。弟劉秀は、王莽の新を滅ぼし皇帝として立った一族の劉玄に兄を誅されたが、恨みの色すら見せず更始帝のために働き、功を誇ることがない。

河北平定の為、幽州の南、冀州まで軍を進めていた劉秀だったが、邯鄲に漢の成帝の末裔を称する劉子輿が立ち、たちまち華北を席巻し、劉秀は窮地に陥った。

その時、呉漢は風聞に惑わされることなく、冷静に両者の行動を見極め、劉秀支援にまわった。
幽州の騎兵を率いた呉漢らの救援を得た劉秀は、劉子輿を倒し、皇帝として立つ。
人との出会いが、人の運命をも変える。劉秀は、呉漢を得たことで漢(後漢)を復興し光武帝となり全国を再統一した。
呉漢も、劉秀との出会いにより、後漢の大司馬(国防大臣)にまで昇る。
皇帝を信頼し、信頼され、一途に国と民を思い続けることで、呉漢は小石から黄金にかわったのだった。


「呉漢」上巻 宮城谷昌光著 中央公論新社 978412005018
「呉漢」下巻 978412005019


橋本

歴史への招待 79) 宗麟の海

2017/12/01 6:02:

大友五郎義鎮(よししげ)、後の宗麟は、幼い時から心臓の病気を抱え、病弱な子として周りから険しい目でみられてきた。
そのためもあり、義鎮が二十一歳になっても、父義鑑(よしあき)は跡継ぎを決めようとしない。
義鎮には,異母弟で十九歳なる八郎晴英と、年若い側室から生まれた三歳の塩市丸がいて、父義鑑は塩市丸を溺愛していた。

義鎮自身は、家督に執着していない。八郎でも塩市丸でも、父の望む跡継ぎを決めればよい。
しかし、周囲がそれを許さなかった。
あるとき、父より柞原八幡宮への代参を頼まれたが、義鑑は義鎮が留守の間に、塩市丸を世継と定め、義鎮を押す重臣を誅殺した。しかも義鎮暗殺を計ったのだ。

未然に計画を察知した義鎮は、かろうじて危難を免れたが、その後の展開は意外なものだった。
父義鑑の意を受けて、義鎮派の重臣を誅殺した一味は、返す刀で義鑑と塩市丸を襲い義鑑に重傷を負わせ、塩市丸を謀殺した。
義鑑を襲った一味は、八郎の母の出である周防の大名大内家の支援をえて、八郎に家督を継がせようと企んだのだ。

義鎮は、暗殺計画が成功したかに偽装し、密かに府内に舞い戻り、臨終まぎわの父義鑑と和解し、一味を打倒し大内家の家督を継いだ。
世に言う「大友二階崩れの変」に勝利した義鎮だったが、一門衆と地元に根を張る国衆との対立と言う、歴代当主が悩まされてきた根深い問題に直面せざる負えなかった。

若い当主は、事あるごとに結束し反抗する国衆の統率と、近隣からの外圧への対抗と、急を要し、しかも難しい対応を迫られていた。

義鎮は、一門衆を威嚇と懐柔で結束させ、謀反人を討ち、外圧の元凶大内家の支援を得た筑後の叔父菊池義武を破り、肥後の反乱も平定した。
さらに、大内義隆の家臣陶隆房と杉重矩を共謀させ、主君義隆を討たせ、父義鑑の仇をとった。
若くして、戦でも調略でも才能を発揮した義鎮は、大友家の後継者としての地位を確固たるものにしたのだった。

しかし、大内家の跡取りに、弟八郎を送り込み、長年の対立を解消できたと思うのも束の間。陶隆房が毛利元就に討たれ、大内家中は大混乱に陥る。
対応策を協議する中、家臣達は義鎮の意に反し、毛利からの誘いを受け、弟八郎を見捨てて、豊前、筑前二ヵ国を得ることを勧める。

悩みの末、義鎮は家臣の意志を尊重するが、これがその後の災いの元となった。
毛利との協調は束の間で、元就は和睦と進攻を繰り返し、大友家中に調略の手を伸ばし反乱を起こさせ、義鎮を悩ませ続けることになる。

苦悩に押し包まれそうになったとき思い出されるのは、ザビエルとの出会いの時、彼が義鎮に言った言葉だった。
「たとえ世界を手に入れたとしても、心が満たされなければ人は幸せにはなれない」
深く共感しながらも、洗礼を受けることは出来なかった。
逆に、家中で宗門とキリスト教信者の対立が深まるに及び、義鎮は出家し宗麟と名乗り、家中の対立・離反を防がざる負えなかった。

六か国の太守として仰がれた宗麟だが、その心のうちは、図らずもザビエルの指摘した通り、幸せとは言えないものだった。
長く辛い戦いと苦悩の果て、念願の洗礼を受け、信仰に生き心に平安を得ることが出来たのは、ずっと後のことでした。


「宗麟の海」安部龍太郎著 NHK出版 978414005690


橋本

歴史への招待 78) 冬を待つ城

2017/11/21 5:23:

久慈四郎正則は、長兄九戸政実(まさざね)の居城のある二戸へ向けて、雪の山道を急いでいた。
政実が、三戸城を居城とする南部信直への新年参賀を欠席すると聞いたから、直接兄の真意を問うためだった。

元々、九戸家は南部家の支流で、南部家を名目上の主家と仰ぎながらも、対等に近い間柄だった。
しかし、秀吉の奥州仕置により、中央集権化を計る豊臣政権は、南部家を主家と認め、九戸ほかの諸家に南部への臣従をもとめた。
今、新年参賀を拒むことは、豊臣政権への反逆とみなされ、南部もろとも滅ぼされてしまうに違いない。

しかも、南部信直と政実の関係は険悪と言ってよい。
それは南部家先代晴政没後、嫡子晴継の不慮の死への疑惑と、その後の家督争いに於いて、信直一派の力による相続に、政実が異議を唱えていたからである。

とは言え、ことここに至っては、我を折って参賀に赴かねば戦になる。
中の兄、実親と相談の結果、三男康実と叔父で長興寺の薩天和尚にも入ってもらい、家族会議を開き、政実を説得し、ようやく正月参賀に行くことを約束させることが出来た。

しかし、正月参賀の日、政実は参賀に訪れなかった。
正則はじめ三兄弟は窮地に立たされ、政実の嫡男亀千代を証人に出し、政実が信直に対面しわびを入れることを約して、かろうじてその場を繕った。

やっと和解の対面を迎えた日。政実が明らかにしたのは、恐るべき豊臣政権の人狩りの話だった。極寒の地、朝鮮への出兵に備え、奥羽の人々を人足として徴発すると言う。
信直にこの件への対応を迫るも、政実の話を信用せず、和解は物別れとなった。
しかも、その場で政実が刺客に襲われるに及び、両家の間は修復不能となり、ついに開戦に至ってしまう。

政実が刺客に襲われたことも、南部と九戸の対立を煽っているのも、豊臣政権のある人物の思惑があった。朝鮮で使役する人狩りだけでなく、九戸の領内で産出する良質の硫黄も目当てだったのだ。

南部、九戸両家は与党を募り、攻防は一進一退、決着が付かず、信直救援の名目で、豊臣の第二次奥州征伐がはじまった。
秀吉は、六月に軍令を発し、伊達や蒲生、奥州の諸将だけでなく、上杉景勝、徳川家康を参軍させ、甥の秀次を総大将に据え、十五万の大軍で攻め寄せてくる。

誰れが見ても政実らに勝ち目はない。
しかし、政実には負けない目論見が出来ていた。
元々要害の地にある九戸城を改修し、より攻めにくくし、鉄砲をはじめ武器、弾薬、兵糧を十分に蓄えた。
そして、伊達正宗に和議の斡旋を依頼し時を稼ぐ。今は八月、旧暦の八月は奥州では秋。十月には奥州の早い冬が訪れ、一面の野山を雪に埋もれさせる。

和議は成らず、征伐軍が動き出すと、山間の地形を利用し、遊撃軍や一揆勢を要路に配置し、輜重部隊や行軍の伸びきった諸将の部隊を襲い、進撃を阻んだ。
さらに、九戸城下の住民を避難させ、一帯を焼け野原とし井戸も潰した。
大軍が、九戸城を囲んでも、陣屋を造る材木すらない。

冬が来れば、大軍であることがかえって苦になる。陣小屋もなく、暖を取る薪もなく、兵糧も届かなければ全滅しかない。
政実ら九戸勢の待ち焦がれる冬は、もうそこまで来ていた。


「冬を待つ城」安倍龍太郎著 新潮社文庫 978410130527


橋本

歴史への招待 77) 利休の闇

2017/11/11 6:01:

足軽大将、藤吉郎二十八歳。
誰もがあっけにとられる大出世だが、当の藤吉郎本人は全く満足などしていない。

「何かが足りない」。自分に足りないものは何かを探し求める藤吉郎が、もしやと思い当たるのが、この頃流行の、茶事だった。
主君信長は、上洛を契機に将軍家、公家らとの付き合いから茶事に身を入れるようになる。
茶事を愛でることは優雅さ、上品さを現し、尊敬を集められる。そんな効能があるようだ。

藤吉郎も喫茶の作法を学ぼうと、織田家出入りの茶人今井宗久や津田宗及に密かに願い出るが、足軽大将ごときに教えられないと断られてしまう。
屈辱と途方に暮れる中、救いの手を差し伸べたのが、同じく織田家出入りの茶人千宗易(後の利休)だった。

初めての茶席は、宗易の弟子を見よう見まねで、つつがなく経験できた。
宗易から感想を求められると、「易しい事をわざとめんどくさく難しくしている茶道に困惑している」と述べたが。
「たかが茶道、されど茶道。すべてが遊びにすぎないが、されど遊びは難しくするほど奥が深く、面白くなる」と返される。
師宗易と弟子秀吉のつながりはこの日から始まった。

弟子入りから十余年。
宗易は、信長の「茶の湯御政道」に欠かせぬ茶頭となり、秀吉も中国方面軍司令官として確固たる地位を固めていた。
その頃の秀吉から宗易への書状の表書きは「宗易公」であり、宗易から秀吉へは「筑州」。師匠と弟子の関係は続いていた。

この関係に変化が訪れるのは、本能寺以降である。
謀叛人明智光秀を討ち、翌年柴田勝家を破ると、織田家で秀吉に対抗できる勢力はなくなる。
紆余曲折するも、家康も臣従し、毛利、上杉もなびくと、九州征伐、北条征伐、奥羽征伐と天下取りへの道を突き進み、瞬く間に秀吉は天下人となってしまった。

天下人となった秀吉と宗易の関係は、秀吉からは「宗易」と呼び捨て、宗易からは「秀吉さま」に変わったが、蜜月と言われる良好な関係は続き、表向きのことは秀長に、内々のことは宗易にとまでいわれるほどの信頼関係を築いていた。

ある時、「宗易の自邸の庭に美しい朝顔が咲き乱れているらしい」そんな噂を聞きつけた秀吉は、宗易の屋敷に密行した。
「ありのままが見たい」から、早朝の電撃訪問に係わらず、前日の深夜にしか知らせなかった。
しかし、秀吉の見た光景は悲惨の一語に尽きた。花もつぼみもすべて刈り取られていた。

さらに不快なことは茶室への入り口が「にじり口」しかなかったことだ。
にじり口は、入る時も、出る時も頭から先に、首から先に出るから無防備状態となり、いやしくも武将の、まして関白である自分の取るべき姿ではない。

ようやく中に入り、顔を挙げると、床に紫の朝顔が一輪生けてあった。
「一点への美の凝縮」意味するところは解るし、効果も絶大だ。しかし、「花は野にあるままに」宗易自身の教えに背くものではないか。

この時生まれた秀吉と利休の亀裂は、その後茶の湯の考え方の違いから決定的なものへと進んでいく。
黄金の茶室に代表される豪華絢爛な茶、北野の大茶会のような一般大衆に広く親しめる茶を是とする秀吉。
対して、詫びさびを追及し、茶道の規則を細かく定める利休。
「たかが茶道、されど茶道。」
退くに退けない二人の対立は、悲しい結末を迎えることになる。


「利休の闇」加藤廣著 文春文庫 978416790938

橋本

歴史への招待 76) 翻弄(盛親と秀忠)

2017/11/01 6:01:

長宗我部盛親は、関ヶ原の東のはずれ南宮山の麓に布陣していた。
元々、上杉征伐に参加するため大坂に上ったが、家康は東征に出た後だった。さらに驚くことに公儀の軍であったはずの家康ら東征軍は、賊軍となり、毛利を総大将に家康を討つという。

公儀に逆らう訳にいかず、西軍に属し南宮山に至る。
開戦後の戦況は、山の向こうなので全くわからない。南宮山に布陣する毛利の後詰を命じられたため、前出ることもかなわない。

苛立ちと焦燥の中、思いがけない一報が。「御味方、総崩れ」
西軍は、小早川秀秋の裏切りと、毛利の内応により、あっけなく崩れ去った。
敗走の中にも、軍を纏め、池田輝政、浅野幸長の追撃を一蹴し、大阪へ退いた。

再戦を望む諸将をしり目に、豊臣家は家康方東軍を公儀の軍と認め、盛親ら西軍を賊軍として、保身を図る。
戦らしい戦をしておらず、家康に刃向ったつもりのない盛親は、武装抵抗派と恭順派の狭間に立たされるが、家康家臣井伊直政を頼り、大坂屋敷で謹慎する。
しかし、見せしめのためもあり長宗我部家は改易となった。

一方の、秀忠は徳川家主力軍を率い、中山道を進む。
西軍に付いた上田城の真田昌幸、信繁親子を鎧袖一触、血祭りにあげようとするが、巧みな戦術に阻まれ無為に時を過ごしてしまう。
家康から、美濃へ急行せよとの書状を受けて、あわてて西上するが長雨にも祟られ、痛恨の関ヶ原への遅参。
戦勝祝いと遅参の詫びに家康を訪ねても、会ってももらえない。
さらに、関ヶ原で同じく初陣の弟忠吉は、島津豊久の首級を挙げる手柄を立て、豊臣諸将の絶賛を浴びているという。

苦悩する秀忠を救ったのは、父家康の冷徹な判断だった。
家臣の多くは、秀忠と共に関ケ原には参戦できず負い目を感じている。ここで世継を忠吉に変えるならば、家康以後、家中は割れる。
これからの世は、戦巧者ではなく、政の巧みな為政者が求められる。家中の不和は最も忌むべきことである。
大人しく意のままになる秀忠は、世継ぎとして残ることが出来た。

関ヶ原から十余年。
家康の温情を待ち続けた盛親も限界に達していた。
豊臣と徳川が一触即発となり、豊臣から土佐一国をとの誘いを受けて、大坂に入城。
大坂冬の陣、夏の陣で長宗我部の武威を示すも、望み叶わず囚われ打ち首となる。

秀忠は、最後の戦い、大坂の陣に長年の汚名挽回と奮い立って参陣するも、夏の陣では戦況を見る目がなく、軍を混乱させ豊臣方に付け込む隙を与えただけで終わった。

関ヶ原の戦いで運命に翻弄された二人。
一瞬の判断が、取り返しのつかない結果を招く。と言い切るのは当時の若い二人には少々酷な話かもしれない。

運命と家康に翻弄され続けた二人が解放されるのは、盛親は自身の死によって。
秀忠は、大坂の陣翌年の家康の死によってだった。


「翻弄 盛親と秀忠」上田秀人著 中央公論新社 978412005005


橋本

歴史への招待 75) 三人の二代目

2017/10/21 6:00:

関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成の闘いと言われる。
確かに西軍をまとめ上げ関ヶ原を演出したのは三成の卓越した手腕であり、彼の存在を欠くことは出来ないが、三成自身は近江佐和山19万石の中堅大名にすぎない。

関ヶ原の前段となる上杉征伐の一方の当事者、上杉景勝は会津・米沢・庄内・佐渡の120万石、西軍総大将毛利輝元は中国八ヶ国120万石、関ヶ原の西軍主将宇喜多秀家は備前美作57万石。
いずれも三成を遥かにしのぐ大大名であり、西軍の主力と言える面々である。

東軍の将は、言わずと知れた徳川家康、関東七ヶ国255万石の太守。石高だけでなく、その戦歴、諸大名への影響力は、他を圧して秀でている。
家康は、今川家に臣従する一被官的立場から、桶狭間を経て織田信長と同盟自立し、秀吉政権下でも重きを成す。ほぼ一代で250万石の大大名に成り上がった、したたかな戦略家である。

他方の西軍の各将は、景勝、輝元、秀家いずれも偉大な父(輝元は祖父)の後を継ぐ二代目的な大名で、父の名声に比して貧弱な自分の統率力から、父の残した有力家臣を抑えきれず、絶えず難しい舵取りに終始せざるを得なかった。

物語は、越後春日山から始まる。
お館様上杉謙信が急死し、跡目争いが勃発した。謙信の二人の養子、甥の景勝と姪の婿北条氏康七男の景虎。上杉家中を二分する御館(おたて)の乱だ。
北条氏政と武田勝頼の介入を招き、景勝危うしと思われたが、勝頼を利によって誘い、北条を牽制させ、北条氏の本格的介入を阻止し、御館の乱に勝利出来た。
しかし、国人の三割が敵方に走り、三割は日和見、味方の四割も景勝の威に服したわけではない。

方や、備前岡山では、幼くして父直家の遺領を継ぐ秀家と母お福は、あわよくば直家の後を襲いかねない叔父忠家や万石以上の有力家臣多数を抱え、宇喜多の家と秀家の存続を計る。
家中を纏め秀家を保護してくれる人物として、秀吉に狙いを定め、秀吉の猶子となり、全面的に依拠していくことになる。

もう一人の輝元も、祖父元就の遺言から二人の叔父吉川元春、小早川隆景に何事も計らざるを得ず、毛利家の総領とはいいながら何も思い通りにならない。
さらに、大国毛利と言いながらも、有力国人の集合体であり、総領輝元は信長のような絶対君主ではなく、盟主的存在にすぎない。

その後、本能寺の変から秀吉の天下制覇、豊臣家の隆盛の時を迎えたが、朝鮮の役、秀吉の後継ぎ問題から、豊臣家から民心が離れてしまう。
秀吉亡き後の天下人は誰か。
最有力大名、家康が天下人となるのか。豊臣恩顧の大名が秀頼を支え豊臣家が続くのか。
はたまた、戦国の世が再来するのか。

情報伝達の未熟な時代。各大名は家の存続をかけ、その去就を決めなければならなかった。
家康は、目的を天下取り一点に集約し、与党を募り、あの手この手で攻勢を計る。
一方の二代目達は、どう動いたのか。
三人が纏まり、目的を打倒家康に絞り切れれば、家康に充分対抗できたはず。しかし、当事者は歴史の結果を知らない。

家康と三人の二代目は何を考え、歴史はどう動いたのか。



「三人の二代目」(上巻)堺屋太一著 講談社文庫 978406281724
「三人の二代目」(下巻) 978406281725


橋本

歴史への招待 74) 最低の軍師

2017/10/11 6:09:

その城は臼井城(うすいじょう)と言う。
下総国(千葉県北部)の中部に位置し、陸路は下総道の街道沿いで、水路では印旛沼から霞ケ浦、手賀沼に通じ、水陸共に交通の要の位置にあった。
臼井城城主は、原上総介胤貞(たねさだ)。北条家傘下の国衆(国人、在地領主)である。

永禄八年(1565)十一月、上杉輝虎(謙信)は、逆賊北条を打ち倒し関東を解放するとの義を掲げ、三国峠を越え関東になだれ込んだ。

北条家家臣、松田孫太郎は、配下の兵250を率いて援軍に赴いたが、あまりに少ない援軍に原家からは難色を示され、軍師を帯同しない援軍は不要と受け入れを断られそうになる。
胤貞らは、あわよくば上杉方への寝返りも視野に入れていたのだ。

止む無く、孫太郎は、道中で出会った易者(白井浄三入道)を軍師に仕立て上げ、軍評定に臨んだ。
臼井城は、周囲が平地で防禦にはむかない城で、しかもその軍勢は、近隣からの援軍を含めて二千余。一方の上杉方は、北関東の反北条勢力をを合わせて、その数は優に二、三万。全軍が臼井に向けられないとは言え、敵は少なくとも六、七千は下らないだろう。

誰が見ても不利な戦いとなることは必定。戦の鉄則から言えば、より防禦力の高い、近隣の千葉氏の居城佐倉城に一旦退き、機会をうかがうのが常套手段と言える。
しかし、原家側は、この提案に猛反発する。
策がある訳ではないが、城を捨てて生き延びるより、どんなに絶望的でも城を守ってあくまで臼井の地で戦うと言う。

城などまた取り戻せばよい。生きていればこそであり、死んでしまえば元も子もない。援軍の孫太郎には原家側の心理が理解できない。
原主従の思いを教えてくれたのは、以外にも浄三だった。
浄三は、冬の間の住まいと食い扶持を求めて、孫太郎の話に乗っただけではないのか。つい先ごろも城から逃げ出そうとしていた浄三は、人が変わったように指図を始める。

孫太郎配下の小田原勢を集めて、何を指示するかと思えば、城下を隈なく歩かせる。さらに走らせる。昼も夜も。
城下の村々からは、肥を集め城内に運び込む。意味はわからないが騙されたと思って従うしかない。詐欺師まがいの易者だと思っていた浄三は、いったい何者なのだ。

孫太郎らが、防備を固めている間にも、上杉勢は着々と北関東の制覇を進め、三月初旬。遂に臼井城に押し寄せてきた。
輝虎の懐刀と言われる河田長親率いる七千。城方の意表を突き、防御の集中する城の南を避け、西を流れる手繰川を渡河し、孫太郎ら小田原勢の籠る仲台砦を襲う。

浄三は、次々と奇策を打ち出し、上杉勢をことごとく退ける。
攻防は、十余日に及び、城方は「もしや勝てるかもしれない」と思いだした頃。上杉方には新たな援軍が。輝虎自身が五千の本隊を率いて駆けつけてきた。
関東領主の寄せ集めとは、まったく違う。足軽に至るまで身じろぎ一つせず、恐ろしいまでに静まりかえる山のような一軍だ。
軍神、毘沙門天の生まれ変わりと称する輝虎率いる上杉本隊は、怒涛の洪水のように城壁を乗り越え、数日のうちに本丸を残すのみとなるほど攻め続ける。

浄三の打った最後の一手は、間に合うのか。
上杉との攻防を左右するその一手とは何か?そもそも浄三入道とは何者なのか?


「最低の軍師」箕輪諒著 祥伝社文庫 978439634354


橋本