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歴史への招待 77) 利休の闇

2017/11/11 6:01:

足軽大将、藤吉郎二十八歳。
誰もがあっけにとられる大出世だが、当の藤吉郎本人は全く満足などしていない。

「何かが足りない」。自分に足りないものは何かを探し求める藤吉郎が、もしやと思い当たるのが、この頃流行の、茶事だった。
主君信長は、上洛を契機に将軍家、公家らとの付き合いから茶事に身を入れるようになる。
茶事を愛でることは優雅さ、上品さを現し、尊敬を集められる。そんな効能があるようだ。

藤吉郎も喫茶の作法を学ぼうと、織田家出入りの茶人今井宗久や津田宗及に密かに願い出るが、足軽大将ごときに教えられないと断られてしまう。
屈辱と途方に暮れる中、救いの手を差し伸べたのが、同じく織田家出入りの茶人千宗易(後の利休)だった。

初めての茶席は、宗易の弟子を見よう見まねで、つつがなく経験できた。
宗易から感想を求められると、「易しい事をわざとめんどくさく難しくしている茶道に困惑している」と述べたが。
「たかが茶道、されど茶道。すべてが遊びにすぎないが、されど遊びは難しくするほど奥が深く、面白くなる」と返される。
師宗易と弟子秀吉のつながりはこの日から始まった。

弟子入りから十余年。
宗易は、信長の「茶の湯御政道」に欠かせぬ茶頭となり、秀吉も中国方面軍司令官として確固たる地位を固めていた。
その頃の秀吉から宗易への書状の表書きは「宗易公」であり、宗易から秀吉へは「筑州」。師匠と弟子の関係は続いていた。

この関係に変化が訪れるのは、本能寺以降である。
謀叛人明智光秀を討ち、翌年柴田勝家を破ると、織田家で秀吉に対抗できる勢力はなくなる。
紆余曲折するも、家康も臣従し、毛利、上杉もなびくと、九州征伐、北条征伐、奥羽征伐と天下取りへの道を突き進み、瞬く間に秀吉は天下人となってしまった。

天下人となった秀吉と宗易の関係は、秀吉からは「宗易」と呼び捨て、宗易からは「秀吉さま」に変わったが、蜜月と言われる良好な関係は続き、表向きのことは秀長に、内々のことは宗易にとまでいわれるほどの信頼関係を築いていた。

ある時、「宗易の自邸の庭に美しい朝顔が咲き乱れているらしい」そんな噂を聞きつけた秀吉は、宗易の屋敷に密行した。
「ありのままが見たい」から、早朝の電撃訪問に係わらず、前日の深夜にしか知らせなかった。
しかし、秀吉の見た光景は悲惨の一語に尽きた。花もつぼみもすべて刈り取られていた。

さらに不快なことは茶室への入り口が「にじり口」しかなかったことだ。
にじり口は、入る時も、出る時も頭から先に、首から先に出るから無防備状態となり、いやしくも武将の、まして関白である自分の取るべき姿ではない。

ようやく中に入り、顔を挙げると、床に紫の朝顔が一輪生けてあった。
「一点への美の凝縮」意味するところは解るし、効果も絶大だ。しかし、「花は野にあるままに」宗易自身の教えに背くものではないか。

この時生まれた秀吉と利休の亀裂は、その後茶の湯の考え方の違いから決定的なものへと進んでいく。
黄金の茶室に代表される豪華絢爛な茶、北野の大茶会のような一般大衆に広く親しめる茶を是とする秀吉。
対して、詫びさびを追及し、茶道の規則を細かく定める利休。
「たかが茶道、されど茶道。」
退くに退けない二人の対立は、悲しい結末を迎えることになる。


「利休の闇」加藤廣著 文春文庫 978416790938

橋本

歴史への招待 76) 翻弄(盛親と秀忠)

2017/11/01 6:01:

長宗我部盛親は、関ヶ原の東のはずれ南宮山の麓に布陣していた。
元々、上杉征伐に参加するため大坂に上ったが、家康は東征に出た後だった。さらに驚くことに公儀の軍であったはずの家康ら東征軍は、賊軍となり、毛利を総大将に家康を討つという。

公儀に逆らう訳にいかず、西軍に属し南宮山に至る。
開戦後の戦況は、山の向こうなので全くわからない。南宮山に布陣する毛利の後詰を命じられたため、前出ることもかなわない。

苛立ちと焦燥の中、思いがけない一報が。「御味方、総崩れ」
西軍は、小早川秀秋の裏切りと、毛利の内応により、あっけなく崩れ去った。
敗走の中にも、軍を纏め、池田輝政、浅野幸長の追撃を一蹴し、大阪へ退いた。

再戦を望む諸将をしり目に、豊臣家は家康方東軍を公儀の軍と認め、盛親ら西軍を賊軍として、保身を図る。
戦らしい戦をしておらず、家康に刃向ったつもりのない盛親は、武装抵抗派と恭順派の狭間に立たされるが、家康家臣井伊直政を頼り、大坂屋敷で謹慎する。
しかし、見せしめのためもあり長宗我部家は改易となった。

一方の、秀忠は徳川家主力軍を率い、中山道を進む。
西軍に付いた上田城の真田昌幸、信繁親子を鎧袖一触、血祭りにあげようとするが、巧みな戦術に阻まれ無為に時を過ごしてしまう。
家康から、美濃へ急行せよとの書状を受けて、あわてて西上するが長雨にも祟られ、痛恨の関ヶ原への遅参。
戦勝祝いと遅参の詫びに家康を訪ねても、会ってももらえない。
さらに、関ヶ原で同じく初陣の弟忠吉は、島津豊久の首級を挙げる手柄を立て、豊臣諸将の絶賛を浴びているという。

苦悩する秀忠を救ったのは、父家康の冷徹な判断だった。
家臣の多くは、秀忠と共に関ケ原には参戦できず負い目を感じている。ここで世継を忠吉に変えるならば、家康以後、家中は割れる。
これからの世は、戦巧者ではなく、政の巧みな為政者が求められる。家中の不和は最も忌むべきことである。
大人しく意のままになる秀忠は、世継ぎとして残ることが出来た。

関ヶ原から十余年。
家康の温情を待ち続けた盛親も限界に達していた。
豊臣と徳川が一触即発となり、豊臣から土佐一国をとの誘いを受けて、大坂に入城。
大坂冬の陣、夏の陣で長宗我部の武威を示すも、望み叶わず囚われ打ち首となる。

秀忠は、最後の戦い、大坂の陣に長年の汚名挽回と奮い立って参陣するも、夏の陣では戦況を見る目がなく、軍を混乱させ豊臣方に付け込む隙を与えただけで終わった。

関ヶ原の戦いで運命に翻弄された二人。
一瞬の判断が、取り返しのつかない結果を招く。と言い切るのは当時の若い二人には少々酷な話かもしれない。

運命と家康に翻弄され続けた二人が解放されるのは、盛親は自身の死によって。
秀忠は、大坂の陣翌年の家康の死によってだった。


「翻弄 盛親と秀忠」上田秀人著 中央公論新社 978412005005


橋本

歴史への招待 75) 三人の二代目

2017/10/21 6:00:

関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成の闘いと言われる。
確かに西軍をまとめ上げ関ヶ原を演出したのは三成の卓越した手腕であり、彼の存在を欠くことは出来ないが、三成自身は近江佐和山19万石の中堅大名にすぎない。

関ヶ原の前段となる上杉征伐の一方の当事者、上杉景勝は会津・米沢・庄内・佐渡の120万石、西軍総大将毛利輝元は中国八ヶ国120万石、関ヶ原の西軍主将宇喜多秀家は備前美作57万石。
いずれも三成を遥かにしのぐ大大名であり、西軍の主力と言える面々である。

東軍の将は、言わずと知れた徳川家康、関東七ヶ国255万石の太守。石高だけでなく、その戦歴、諸大名への影響力は、他を圧して秀でている。
家康は、今川家に臣従する一被官的立場から、桶狭間を経て織田信長と同盟自立し、秀吉政権下でも重きを成す。ほぼ一代で250万石の大大名に成り上がった、したたかな戦略家である。

他方の西軍の各将は、景勝、輝元、秀家いずれも偉大な父(輝元は祖父)の後を継ぐ二代目的な大名で、父の名声に比して貧弱な自分の統率力から、父の残した有力家臣を抑えきれず、絶えず難しい舵取りに終始せざるを得なかった。

物語は、越後春日山から始まる。
お館様上杉謙信が急死し、跡目争いが勃発した。謙信の二人の養子、甥の景勝と姪の婿北条氏康七男の景虎。上杉家中を二分する御館(おたて)の乱だ。
北条氏政と武田勝頼の介入を招き、景勝危うしと思われたが、勝頼を利によって誘い、北条を牽制させ、北条氏の本格的介入を阻止し、御館の乱に勝利出来た。
しかし、国人の三割が敵方に走り、三割は日和見、味方の四割も景勝の威に服したわけではない。

方や、備前岡山では、幼くして父直家の遺領を継ぐ秀家と母お福は、あわよくば直家の後を襲いかねない叔父忠家や万石以上の有力家臣多数を抱え、宇喜多の家と秀家の存続を計る。
家中を纏め秀家を保護してくれる人物として、秀吉に狙いを定め、秀吉の猶子となり、全面的に依拠していくことになる。

もう一人の輝元も、祖父元就の遺言から二人の叔父吉川元春、小早川隆景に何事も計らざるを得ず、毛利家の総領とはいいながら何も思い通りにならない。
さらに、大国毛利と言いながらも、有力国人の集合体であり、総領輝元は信長のような絶対君主ではなく、盟主的存在にすぎない。

その後、本能寺の変から秀吉の天下制覇、豊臣家の隆盛の時を迎えたが、朝鮮の役、秀吉の後継ぎ問題から、豊臣家から民心が離れてしまう。
秀吉亡き後の天下人は誰か。
最有力大名、家康が天下人となるのか。豊臣恩顧の大名が秀頼を支え豊臣家が続くのか。
はたまた、戦国の世が再来するのか。

情報伝達の未熟な時代。各大名は家の存続をかけ、その去就を決めなければならなかった。
家康は、目的を天下取り一点に集約し、与党を募り、あの手この手で攻勢を計る。
一方の二代目達は、どう動いたのか。
三人が纏まり、目的を打倒家康に絞り切れれば、家康に充分対抗できたはず。しかし、当事者は歴史の結果を知らない。

家康と三人の二代目は何を考え、歴史はどう動いたのか。



「三人の二代目」(上巻)堺屋太一著 講談社文庫 978406281724
「三人の二代目」(下巻) 978406281725


橋本

歴史への招待 74) 最低の軍師

2017/10/11 6:09:

その城は臼井城(うすいじょう)と言う。
下総国(千葉県北部)の中部に位置し、陸路は下総道の街道沿いで、水路では印旛沼から霞ケ浦、手賀沼に通じ、水陸共に交通の要の位置にあった。
臼井城城主は、原上総介胤貞(たねさだ)。北条家傘下の国衆(国人、在地領主)である。

永禄八年(1565)十一月、上杉輝虎(謙信)は、逆賊北条を打ち倒し関東を解放するとの義を掲げ、三国峠を越え関東になだれ込んだ。

北条家家臣、松田孫太郎は、配下の兵250を率いて援軍に赴いたが、あまりに少ない援軍に原家からは難色を示され、軍師を帯同しない援軍は不要と受け入れを断られそうになる。
胤貞らは、あわよくば上杉方への寝返りも視野に入れていたのだ。

止む無く、孫太郎は、道中で出会った易者(白井浄三入道)を軍師に仕立て上げ、軍評定に臨んだ。
臼井城は、周囲が平地で防禦にはむかない城で、しかもその軍勢は、近隣からの援軍を含めて二千余。一方の上杉方は、北関東の反北条勢力をを合わせて、その数は優に二、三万。全軍が臼井に向けられないとは言え、敵は少なくとも六、七千は下らないだろう。

誰が見ても不利な戦いとなることは必定。戦の鉄則から言えば、より防禦力の高い、近隣の千葉氏の居城佐倉城に一旦退き、機会をうかがうのが常套手段と言える。
しかし、原家側は、この提案に猛反発する。
策がある訳ではないが、城を捨てて生き延びるより、どんなに絶望的でも城を守ってあくまで臼井の地で戦うと言う。

城などまた取り戻せばよい。生きていればこそであり、死んでしまえば元も子もない。援軍の孫太郎には原家側の心理が理解できない。
原主従の思いを教えてくれたのは、以外にも浄三だった。
浄三は、冬の間の住まいと食い扶持を求めて、孫太郎の話に乗っただけではないのか。つい先ごろも城から逃げ出そうとしていた浄三は、人が変わったように指図を始める。

孫太郎配下の小田原勢を集めて、何を指示するかと思えば、城下を隈なく歩かせる。さらに走らせる。昼も夜も。
城下の村々からは、肥を集め城内に運び込む。意味はわからないが騙されたと思って従うしかない。詐欺師まがいの易者だと思っていた浄三は、いったい何者なのだ。

孫太郎らが、防備を固めている間にも、上杉勢は着々と北関東の制覇を進め、三月初旬。遂に臼井城に押し寄せてきた。
輝虎の懐刀と言われる河田長親率いる七千。城方の意表を突き、防御の集中する城の南を避け、西を流れる手繰川を渡河し、孫太郎ら小田原勢の籠る仲台砦を襲う。

浄三は、次々と奇策を打ち出し、上杉勢をことごとく退ける。
攻防は、十余日に及び、城方は「もしや勝てるかもしれない」と思いだした頃。上杉方には新たな援軍が。輝虎自身が五千の本隊を率いて駆けつけてきた。
関東領主の寄せ集めとは、まったく違う。足軽に至るまで身じろぎ一つせず、恐ろしいまでに静まりかえる山のような一軍だ。
軍神、毘沙門天の生まれ変わりと称する輝虎率いる上杉本隊は、怒涛の洪水のように城壁を乗り越え、数日のうちに本丸を残すのみとなるほど攻め続ける。

浄三の打った最後の一手は、間に合うのか。
上杉との攻防を左右するその一手とは何か?そもそも浄三入道とは何者なのか?


「最低の軍師」箕輪諒著 祥伝社文庫 978439634354


橋本

歴史への招待 73) 早雲立志伝

2017/10/01 6:13:

三保松原から富嶽を眺める若武者がいる。
葦毛の駿馬に跨り、対蝶(むかいちょう)の透かし紋を散らした紫黒の大紋直垂をまとい、金梨地の鞘に青貝細工を施した飾太刀を佩いている。
一瞥しただけで名のある武家の御曹司とわかる美装だった。

伊勢新九郎盛時(早雲)は、父備中守盛定の名代として、京から駿河に下ってきた。
盛定は、八代将軍足利義政の申次衆であり、駿河守護今川義忠と幕府の取次役を務めてきた。その縁から、盛時の姉が義忠に嫁ぎ嫡男龍王丸をもうけていた。
今川家と伊勢家は、緊密な親戚となり、両家の将来も安泰と思われたのも束の間、義忠は遠江の合戦にて討死してしまった。

突然の不幸に今川家中は動揺し、龍王丸がわずか六歳だったため、家督相続をめぐる内訌となってしまった。
姉の北川殿から助けを求める書状が届いたが、盛定は応仁の乱後の公方の座を巡る争いが続いており、止む無く盛時を名代として駿河に下向させたのだった。

しかし、今川家の内情は思っていた以上に切迫しており、状況は最悪で予断を許さない状態だった。龍王丸の従叔父にあたる小鹿範満(おしかのりみつ)を押すのは、家中だけでなく伊豆の三浦氏、相模の大森氏、さらに伊豆の堀越公方、扇谷上杉家に及び、堀越公方からは執事、犬懸上杉正憲、扇谷上杉家からは家宰太田道灌まで出張って来ている。

武力を背景とし一触即発の荒々しさで始まった評定では、盛時ら龍王丸派は京の意向で押し切ることは出来ず、やむなく折衷案として龍王丸元服までの間、小鹿範満を総領代行とする案を提示する。
この案に以外にも道灌が賛成し、すんなり纏まるかにみえたが、代行とはいえ範満が駿府館にて政を取り仕切るべきとの筋目論で、龍王丸は館を追い出される羽目に。
道灌にまんまとしてやられた盛時。屈辱の中、再起を期す。

あれから十年。
龍王丸が16歳になっても元服を認めようとしない範満を討つ。
十年の間に今川家を巡る環境に変化が生じていた。道灌は主家扇谷上杉定正に暗殺され、堀越公方と執事上杉正憲は不和となって、他からの介入は恐れる必要はない。
さらに今回、盛時は用意周到に、管領細川政元を通じ将軍義尚より龍王丸の駿河守護職就任を認めた御教書、範満らを謀叛人と断定し誅罰を命ずる御内書を得て、さらに伊勢家の軍勢を密かに呼び寄せ駿河館を襲った。

計画は成功し、小鹿範満と上杉正憲を討ち、龍王丸(氏親)を守護職に就けることが出来た。
この功により、盛時は駿河に所領を持つ身となり、また堀越公方足利政知の信任を得たこと、将軍足利義尚、管領細川政元と深く結びついたことは、後の伊豆、関東への足掛かりとなる。

この後、運命の糸に導かれ、京の政界から身を引かざる負えなくなった盛時は駿河に下向し、今川氏親の家臣となり、伊豆の政変に係わらざる負えなくなるのだ。

ただ、この時の盛時は、まだそのことを知らない。

「早雲立志伝」は、伊勢新九郎盛時の前半生。父の名代として駿河に下向してから、今川氏親の家督相続を成し遂げ、伊豆、相模の小田原へ進攻するまでの物語である。
著者自身が、後説の中で明かしている続編、「早雲立国伝」が早雲の後半生にあたり、後北條家の基礎を築いた早雲の全貌が明らかになる。


「早雲立志伝」海道龍一朗著 集英社文庫 978408745626


橋本

歴史への招待 72) 黄砂の籠城

2017/09/21 5:01:

1900年当時、北京には租界はなかった。
日本を含め欧米列強の公使館は、北京内城に隣接した東交民巷と呼ばれる約一キロ四方の地区に、中国側公館、民間施設・住居と雑居してあった。

アヘン戦争(1840)以降、宣教師や欧米民間人が中国民衆と広範に接触するようになると、戦勝国意識で傲岸な欧米人とその特権に守られた中国人信者たちは、一般民衆との対立を深めていく。
各地で仇教事件(教案)とよばれる欧米人を含むキリスト教信者と民衆の衝突事件は、わずか60年の間に400件を数えるまでになった。

義和団は、当初山東省を中心とした梅花拳(後の義和拳)とよばれる武闘集団がその起こりだったが、「扶清滅洋」をスローガンに掲げるに及び、一般民衆を巻き込み燎原之火のごとくたちまち全国に波及した。
中国官憲は、欧米からの圧力にも係わらず摘発には熱心でなく、密かに支持援助する高官も現れ、後には時の最高権力者西太后が支持を表明するに及び、中国は日本を含む欧米列強に宣戦することになる。これが義和団事変(北清事変)である。

話は少しさかのぼって3月。一人の公使館付陸軍武官が赴任してきた。柴五郎砲兵中佐である。
語学に堪能な彼は、物静かで礼儀正しく、決して高圧的な態度をとる人ではない。
日本人を含む居留民虐殺事件を引き起こした義和団への対策を協議するために開かれた各国公使と駐在武官を交えた会議でも、西公使とともに積極的な発言はしなかった。
発言しなかったと言うより、欧米列強からは日本は軽く見られていて、義和団について発言を求められることもなかったというのが事実である。
会議は、楽観が支配し、義和団は革命組織にはなりえない。よって性急に各国軍隊を呼び寄せることは出来ないとの結論に達した。

しかし、5月末。義和団は、集団で北京・天津間の鉄道を襲った。
あわてた各国は、天津に駐留する自国軍を北京に呼び寄せた。英・仏・米・露・伊・独・墺・日の合計405名。
援軍を迎えて、各国駐在武官と援軍の代表を交えた対策会議が開かれた。
当初、各国代表はそれぞれ勝手な意見を言い合い対立していたが、柴中佐が精密な地図を提示し各国の防御能力を分析するに及び、語学堪能でもある柴中佐が会議を主導し、各国は一致団結することが出来た。

柴中佐の防衛計画は綿密を極め、兵の配備、簡易的な防壁の設置、機関砲の配置から防御区域の分担、兵站の管理まで及んだ完璧なものだった。
さらに、追加の援軍2300名の第一陣800名が、天津を出発したとの情報を得て安堵したのも束の間、援軍は義和団の大集団と交戦状態となり、撃退されてしまった。

北京には次々と義和団が集結し、東交民巷を包囲する集団は数万にも達した。
そして、遂に義和団は、牙を剥き襲いかかって来た。津波のごとく襲いかかる人の波。撃たれても撃たれても怯むことなく襲いかかる義和団に、防衛網はしだいに狭められ風前の灯となる。

誰もが悲観に支配される中、決して諦めず、規則正しく、、献身的に働いたのは、日本人たちだった。31名の義勇兵を含む日本軍と民間人は、自己の危険を顧みず、自国と他国を問わず中国人をも含めて東交民巷にいるすべての人の為に戦った。
この悲惨で、苦しい籠城は、実に2ヶ月弱も続き、人々は共に助け合い苦難を乗り切った。

英国公使マクドナルドが「君たち日本人が示した勇気を心から称えたい」と言ったことは、その場にいて共に苦闘した欧米人すべての声だった。


「黄砂の籠城」松岡圭祐著 講談社文庫 上巻 978406293634
下巻 978406293677


橋本

歴史への招待 71) 三成の不思議なる条々

2017/09/11 5:28:

不思議な依頼である。
30年も前の関ヶ原の戦いを当時の関係者に聞き歩き、三成が西軍の旗頭になれたのは何故か。三成のいくさ手立ては上手下手か。関ヶ原の道理はどちらにあったのか。 などを纏める仕事である。

なんのために。依頼者は名も理由も明かさない。
しかも聞く先の大名衆の指定があり、その大名衆の家来を探し出して聞き歩くのだ。
筆紙商の文殊屋は、戸惑いながらも依頼を引き受けた。

一人目は、福岡五十二万石黒田家中、関ヶ原当時鉄砲頭だった今は二百石取りの馬廻り衣笠三郎兵衛。
江戸の屋敷を訪れると、名前も名乗らぬ文殊屋に無礼を咎めるが礼金の多さに機嫌を直し語り始める。

上杉征伐に向っていた東軍は、三成の挙兵を聞き、取って返し、美濃国で東西両軍が対峙した。
東軍は家康本隊を赤坂の地に向え、大垣城に籠る三成ら西軍とにらみ合う。今にも城攻めが始まるのかと思いきや、夜中に陣触れがあり出陣となった。
賊軍(西軍)は大垣城から抜け出し西へ向かったため、追尾すると言う。
土砂降りの雨の中、四里ほど歩き関ケ原へ。
夜が明けると雨は小降りとなったが、濃い霧で何も見えない。八万の大軍の気配だけは濃厚だが、地理にも不案内で心細いことこの上もない。

霧が晴れないまま、鉄砲の音で開戦を知る。
敵を求めて右往左往するなか、やっと霧が晴れてきて、目の前には大一大万大吉の旗が。
なんと敵将石田三成の馬印ではないか。
しかも敵は、笹尾山を背にして高みを占め、とても急造とは思えない堀と土塁をめぐらした陣地に入っていた。
気づいた時には、もう遅い。一旦攻めかかってしまった以上、不利とわかっても後へは引けぬ。
引けばすなわち負けで、御味方は崩れ立つ。攻め続けるしかない。

鉄砲の打ち合いの後、お味方が敵陣に取りついたが、集中砲火を浴び退くと、敵が追撃してくる。一、二町も押し返すと、敵はさっと引く。
また、お味方が敵陣に取りつくが、押し返される。この繰り返しでお味方の損害ばかりが増えていく。
我が黒田家だけでなく、丹後の細川、伊予の加藤、藤堂など諸将が攻め寄せるが攻めきれない。結局戦は小早川の裏切りであっけなく西軍の総崩れとなった。

三成は豊臣家の奉行だったから太閤の威を借る狐で、太閤亡き後も豊臣家の威光で諸将を反家康に起ちあがらせた。
関ヶ原の布陣と、東軍をまんまと包囲の罠に誘い込んだ戦手立ては見事と言えるが、裏切りや日和見を見極められなかったうかつ者よな。
戦の道理は、もちろん権現様にあるに決まっている。天下を治める器量が勝敗をわけたのだ。


その他にも、福島正則家臣、関ヶ原には直接参戦しなかった加賀前田家浪人、真田家旧臣など、東軍方西軍方合わせて11人に、江戸だけでなく上方まで足を運び、同様の話を聞き書きした文殊屋は、何とか仕事を成し遂げた。

物語の最後に依頼主が明かされ、なぜこのような依頼がなされたのかも明らかになる。
依頼主は、三成ゆかりの人であるが、徳川幕府盤石の時代、皆が幕府に恐れおののくとき、この人がとった行動は驚嘆せざるおえない。
武士の矜持を最後にみせた人である。


「三成の不思議なる条々」岩井三四二著 光文社文庫 978433477515


橋本

歴史への招待 70) 孟徳と本初(三国志官渡決戦録)

2017/09/01 5:56:

官渡(かんと)の戦い。
三国時代「赤壁の戦い」「夷陵の戦い」「五丈原の戦い」と並ぶ、大決戦の一つ。
帝を擁する曹操と河北4州を従える袁紹が黄河支流、官渡水を挟んで対峙し、数か月に亘る激戦の末、曹操が袁紹を破り中原の覇権を確立する戦いである。

物語は、それよりずっと以前、二人がまだ若く官に付かないころの花嫁泥棒の話から始まる。
借財の形に嫁ぐ娘を不憫に思う袁紹の正義感を、曹操が煽り、若気が起こした企てだったが、花嫁をかどわかし逃げる途中のトラブルで窮してしまう。

窮地に陥ると、その人の本性が現れる。袁紹はいざとなれば父袁逢と袁家の名声でもみ消そうと計る。
財力に恵まれながらも、宦官の祖父をもつ曹操は濁流派の筆頭と目される家柄であり、家名を盾にすることは憚られ、自力で窮地を脱するしかない。
幼馴染でありながらも、名門生まれ袁紹と、新興勢力の曹操では、その境遇と発想には雲泥の差があった。

黄巾の乱後、暴君董卓との戦いでは、袁紹は家柄から反董卓軍の盟主となるも自らは戦わず、曹操は傘下の一将に過ぎなかったが、敗れたとはいえ董卓軍と一戦に及んだ勇気は諸将の賞賛を得た。
その後、群雄割拠の時代を迎え、袁紹はその名声から河北冀州を中心に4州を支配し、動員兵力80万を誇り、一方の曹操は帝を推戴し許都を都とし、豫洲ほか3州の一部を支配したが、動員兵力は15万程度で、その差は大きかった。

袁紹は、さらに拡大するには曹操を飲み込むしかなかったが、曹操の智謀を危惧し、また認めていたから大国の圧力により屈服させ自軍に取り込もうとし、曹操は彼我の力の差を自覚し、支配下の徐州など領内の安定を優先させたため、お互いに対立を避けた。

しかし、曹操に反旗を翻し敗れた劉備のもたらした帝の密勅により、状況が変わる。
帝の詔勅を託されながら、立たなければ、曹操を恐れ逃げたと言われ、袁家の名声は一気に地に落ちる。名家ゆえに勢力を保ち得ている袁紹は遂に曹操との戦いを決意する。

初戦の白馬の戦いでは、袁紹軍先遣隊に落とされた白馬の砦を、曹操は果断な対処で回復したが、袁紹軍本隊20万と10万づつの遊軍3隊が南下するに及び、白馬を放棄し官渡の砦に籠城する。
官渡の砦を落とされれば許都まで遮るすべはない。
大軍を擁しながらも、決戦を急がず櫓や土山を築き、矢戦により曹操軍に消耗を強いる袁紹軍は、王者の戦いを進める。
兵力差のある曹操軍は、防戦一方で、後方攪乱の部隊を出すも、袁紹軍に油断はなく、かえって兵力を損耗してしまう。

もはや、打つ手は敵の糧道を絶つことしかない。袁紹軍は大軍だけに兵糧を絶たれれば維持できない。再三、索敵部隊を出すがこれもことごとく失敗する。
おまけに自軍の兵糧が尽きようとしている。自軍に厭戦気分や裏切りの兆候さえ。万事休すかと思われた曹操を救ったのは・・・。


「孟徳と本初」吉川永青著 講談社 9784062206082


橋本

歴史への招待 69) 決戦!関ヶ原

2017/08/21 6:08:

決戦!シリーズ第一弾の文庫版。
「決戦!関ヶ原」伊東潤他著 講談社文庫 978406293716

7人の作家が、7人の武将を取り上げ関ヶ原を描いています。
定説を覆す仮説あり、あまり取り上げられなかった人物に着目したりで、面白い「関ヶ原」を味わえます。
7本の短編でありながら、関ヶ原のキーパーソンの内面や行動をつぶさに描くことで、7本の短編が有機的に絡み合い、一つの作品「関ヶ原」に仕上がっています。

「人を致して」伊東潤
関ヶ原前に、家康と三成は裏で取引していた。
荒唐無稽とも思える仮説。裏取引は、豊臣家の武断派集団を一掃するため、平和な世には不要な集団を一挙に葬り去り、家康による天下の掌握と豊臣家の温存を計るための裏技だった。

秀吉が死に、後を託された利家が危篤となったころ、三成が密かに家康の元へ。
三成には利家亡き後、豊臣家に内紛が起こることが判っていた。加藤・福島ら武断派と三成らとの対立は、回避不能のところまで行きついていた。

三成は、家康の力で豊臣家の反三成派を戦場に引きずり出し一網打尽とすることで、豊臣家内での地位を盤石にしたかったのか、豊臣家の安泰のためには家康に天下を譲るほか道はないと本当に考えていたのか。

家康は、三成の罠を疑いながらも、人に致され続けた人生、今川義元、信長、秀吉と抑え込まれ続けた己の人生に決別すべく三成の誘いに乗る。

利家死後は、伏見城の攻防(鳥居元忠の奮戦:討死)以外二人の思惑通り進んで、関ヶ原を迎える。
三成は本当に武断派のみを叩くつもりだったのか。東軍敗色濃厚となった場合、家康との黙約を守る気持ちはあったのだろうか。

役者は家康が一枚上手だった。家康は事前に吉川広家の内応を取り付け毛利勢を封じ込め、小早川秀秋の裏切りをも画策していた。万一黒田、福島ら武断派が敗れたとしても、大垣あたりに退き、秀忠の徳川軍本体を待ち再戦すればよい。
しかし戦いは、小早川秀秋という切り札を切った家康=東軍が形勢を逆転し、勢いづく東軍は躊躇なく西軍=三成を叩き潰した。

関ヶ原の戦いは、わずか6時間で決し、終わってみれば東軍の圧勝となった。
もう決して人に致されることはない。人生初の安堵の笑みを浮かべた家康は、もう次の一手、この先の展開を考えていた。

この他に、
「笹を噛ませよ」吉川永青、「有楽斎の城」天野純希、「怪僧恵瓊」木下昌輝、「丸に十文字」矢野隆、「真紅の米」沖方丁、「孤狼なり」葉室麟、の6編。
いずれ劣らぬ錚々たる作家の「関ヶ原」もお楽しみに。

また、新刊「決戦!関ヶ原2」葉室麟他著 講談社 978406220457
も発売になっています。

PS:岡田准一さん主演(石田三成)の東宝映画「関ヶ原」が、8月26日(土)公開となります。
こちらの原作は、「関ヶ原」上・中・下 司馬遼太郎著 新潮文庫です。


橋本

歴史への招待 68) 野望の憑依者(よりまし)

2017/08/11 6:47:

足利家執事、高師直(もろなお)と高氏(後の尊氏)は、足利勢二千を率い、総大将名越高家の元、反乱軍鎮定に向う五万七千の軍勢の一翼を担い、鎌倉を立ち上洛途上にあった。

1331年、元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇は、鎌倉方の大軍に完敗し、隠岐へ配流されていた。
しかし、帝の三男護良(もりよし)親王を中心に、河内の楠木正成、播磨の赤松円心らが再度挙兵、反乱の野火は瞬く間に広がり、またも武力討伐をせざるおえなくなっていた。

こたびも鎮圧できるのだろうか。不安に思う師直は、高氏・直義兄弟に敵方を探るよう提案し受け入れられる。
案の定、宮方に付くものは多く、西国は反鎌倉一色に染まっているとの風説まで。
足利勢は後醍醐帝に内応を誓いながらも旗幟を鮮明にせず、日和見を決め込み、総大将高家が敗れると、宮方を表明し六波羅を攻め落とす。

尊氏と直義は、建武新政では多大な報奨と官位を得るも、政治の実権からは遠ざけられる。
尊氏は謀叛を疑われ追い詰められていくが、旧鎌倉勢力の反乱に乗じて、敵方を破り鎌倉に居座り、勢力拡大を図った。
尊氏が巻き返しの為、君側の奸新田義貞を討つことを表明し上洛軍を起こすと、後醍醐帝は尊氏・直義兄弟追討の綸旨を下し追討軍を差し向ける。

賊軍となったことで意気消沈引きこもってしまった尊氏。主君のいない上洛軍は、三河、駿河で大敗したが、師直が尊氏を奮い立たせたことで形勢は逆転、敵方の内応もあり箱根で大勝。
尊氏は勢いをかって上洛するが宮方奥州軍が到着するや、またもや逆転、京を落ち九州へ。
九州では、宮方を奇跡的に破り、反撃に転じ、兵庫湊川での大勝により京を回復する。

一連の紆余曲折を経て、尊氏は新帝より征夷大将軍に任じられ幕府を開き、後醍醐帝は吉野に退き南北朝の二帝時代に入る。
共通の敵がいなくなると、仲たがいを始めるのはいつの世も同じ。元々性格的にも合わなかった師直と直義は、足利政権ナンバー2の座をめぐって主導権争いが激化していく。

鎌倉幕府の政治を理想とする直義は、公家や僧侶と武士の共存を図り、しかも武功や能力よりも家格や嫡庶で武士を差別することが政権の安定につながると思っていた。
力=能力・実績のあるものを抜擢、優遇させようとする師直と、ことごとく対立する。

遂に二人の仲は決裂、先手を打ったのは直義。師直暗殺を企て未遂に終わるが、尊氏を動かし師直を隠居させ一切の政務から身を引かせた。
まさか直義が、自分の暗殺まで企むとは思わなかった師直の油断が招いた結果だったが、政権を掌握した直義にも隙が生じ、わずかニケ月後には師直の弟師泰に逆襲され尊氏の屋敷に逃げ込むことになる。

師直は尊氏邸を包囲するも迷っていた。
足利家家宰として尊氏一筋に仕えてきた自分と、力がすべて力あるものが天下を支配するという野望との葛藤の末、義直の隠居で決着させてしまう。
尊氏に対し非常になりきれなかった師直の手から、掴みかけていた天下はすり抜けていった。

その後、師直と高一族は、汚名と共に悲劇の結末を迎えることになる。

「野望の憑依者」伊東潤著 徳間文庫 978419894235


橋本