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K-ボイス

歴史への招待 76) 翻弄(盛親と秀忠)

2017/11/01 6:01:

長宗我部盛親は、関ヶ原の東のはずれ南宮山の麓に布陣していた。
元々、上杉征伐に参加するため大坂に上ったが、家康は東征に出た後だった。さらに驚くことに公儀の軍であったはずの家康ら東征軍は、賊軍となり、毛利を総大将に家康を討つという。

公儀に逆らう訳にいかず、西軍に属し南宮山に至る。
開戦後の戦況は、山の向こうなので全くわからない。南宮山に布陣する毛利の後詰を命じられたため、前出ることもかなわない。

苛立ちと焦燥の中、思いがけない一報が。「御味方、総崩れ」
西軍は、小早川秀秋の裏切りと、毛利の内応により、あっけなく崩れ去った。
敗走の中にも、軍を纏め、池田輝政、浅野幸長の追撃を一蹴し、大阪へ退いた。

再戦を望む諸将をしり目に、豊臣家は家康方東軍を公儀の軍と認め、盛親ら西軍を賊軍として、保身を図る。
戦らしい戦をしておらず、家康に刃向ったつもりのない盛親は、武装抵抗派と恭順派の狭間に立たされるが、家康家臣井伊直政を頼り、大坂屋敷で謹慎する。
しかし、見せしめのためもあり長宗我部家は改易となった。

一方の、秀忠は徳川家主力軍を率い、中山道を進む。
西軍に付いた上田城の真田昌幸、信繁親子を鎧袖一触、血祭りにあげようとするが、巧みな戦術に阻まれ無為に時を過ごしてしまう。
家康から、美濃へ急行せよとの書状を受けて、あわてて西上するが長雨にも祟られ、痛恨の関ヶ原への遅参。
戦勝祝いと遅参の詫びに家康を訪ねても、会ってももらえない。
さらに、関ヶ原で同じく初陣の弟忠吉は、島津豊久の首級を挙げる手柄を立て、豊臣諸将の絶賛を浴びているという。

苦悩する秀忠を救ったのは、父家康の冷徹な判断だった。
家臣の多くは、秀忠と共に関ケ原には参戦できず負い目を感じている。ここで世継を忠吉に変えるならば、家康以後、家中は割れる。
これからの世は、戦巧者ではなく、政の巧みな為政者が求められる。家中の不和は最も忌むべきことである。
大人しく意のままになる秀忠は、世継ぎとして残ることが出来た。

関ヶ原から十余年。
家康の温情を待ち続けた盛親も限界に達していた。
豊臣と徳川が一触即発となり、豊臣から土佐一国をとの誘いを受けて、大坂に入城。
大坂冬の陣、夏の陣で長宗我部の武威を示すも、望み叶わず囚われ打ち首となる。

秀忠は、最後の戦い、大坂の陣に長年の汚名挽回と奮い立って参陣するも、夏の陣では戦況を見る目がなく、軍を混乱させ豊臣方に付け込む隙を与えただけで終わった。

関ヶ原の戦いで運命に翻弄された二人。
一瞬の判断が、取り返しのつかない結果を招く。と言い切るのは当時の若い二人には少々酷な話かもしれない。

運命と家康に翻弄され続けた二人が解放されるのは、盛親は自身の死によって。
秀忠は、大坂の陣翌年の家康の死によってだった。


「翻弄 盛親と秀忠」上田秀人著 中央公論新社 978412005005


橋本

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